川下八幡神社(かわしもはちまんじんじゃ)へ参拝に行ってきました。川下八幡神社は北海道石狩市浜益区川下6に鎮座する神社です。

ここでは、川下八幡神社の参拝や社殿写真、ご利益・お祭り、神社右隣にある史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡などをご紹介しています。

川下八幡神社(かわしもはちまんじんじゃ)参拝レポ

川下八幡神社の社号標は、民家の道路脇にあります。

この道から参道になるのでしょうか。

川下八幡神社の社号標は、大正十四年八月に建之。

社号標から数十メートル歩き、川下八幡神社の鳥居まで来ました。

川下八幡神社は石段と、コンクリートの参道になっています。

鳥居は1つ。

川下八幡神社の鳥居をくぐると、両脇に手水石があります。

社殿向かって右手の手水石は、明治十四年五月吉日に奉納されています。

左手の手水石は、奉納日は不明で、かなり古くから神社にありそうです。

第一石段を登ると、両脇に石灯籠があります。

川下八幡神社の石灯籠は、

昭和三年十一月十日建之。

第二石段を登ると、両脇に狛犬さんが居ます。

狛犬の建之日は不明ですが、平成二十八年七月吉日に狛犬台座を改修しています。

川下八幡神社の狛犬は、2体+2体の合計4体あり、とても古い狛犬が置かれています。

もしかすると、文久時代の狛犬さんかもしれないです。

川下八幡神社の社殿写真

川下八幡神社の社殿です。

川下八幡神社の社殿扁額(へんがく)です。

川下八幡神社の拝殿には、本坪鈴(ほんつぼすず)はありませんが、お賽銭をポストに入れて参拝します。

川下八幡神社の社殿から、後ろを振り返って撮影した境内写真です。

右手にトイレもあることに気付きました。

川下八幡神社の歴史

文久2年(1862年)12月、庄内(荘内)藩が設けた陣屋内に「八幡神社」を創建。

文久3年(1863年)7月15日、荘内より御分霊を頂き奉斎。

その後、庄内藩の引き揚げにより当地(現在地)に遷宮された。

大正2年(1913年)12月28日、村社に列せられる。

神職は、昭和41年(1966年)1月24日に最後の宮司が他界されてから現在に至るまで宮司欠員神社となっているが、氏子らによる狛犬台座、参道整備、礎石などの改修をし現在も守られており、境内も綺麗に整備されています。

鳥海山・湯殿山・羽黒山の石碑

この石碑は庄内から運搬してきたものであり、人々が遠い故郷の名山を想い、崇敬の対象としてきた。

ここにその開拓の労苦を偲び、礎石を改修。平成二十一年八月十四日

川下八幡神社の御祭神とご利益

御祭神

誉田別尊(ほんだわけのみこと)

ご利益

・国家鎮護・殖産産業・家運隆昌・成功勝利・教育・交通安全・悪病災難除け・子孫繁栄・厄除け

川下八幡神社のお祭り(例祭)

例祭日:8月15日

史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡

史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡は、川下八幡神社の鳥居手前の右側に、案内板があります。

約80m進むと、

史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡に到着します。

■史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡
指定年月日:昭和63年5月17日
所在地:石狩市浜益区川下、柏木
面積:167809.50㎡

以下、看板を引用

ロシアの南下により北方の緊張が高まった安政6(1859)年、幕府は奥羽六籓に蝦夷地整備を命じました。

荘内籓(山形)には西蝦夷地が割り当てられ、万延元(1860)年にハママシケ陣屋が設けられました。

陣屋内は山肌を削って平らな場所をつくり、奉行長屋、神社、土蔵、湯屋などが建てられました。

これらの造成した跡は今でもはっきりと確認することができます。

また、「千両堀」と呼ばれる水路も掘られました。

戊辰戦争の勃発により、慶応4(1868)年には総引き上げが始まり、9年に及ぶ荘内籓による陣屋経営は終わりました。

史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡は、幕末の対外関係と蝦夷地開拓を現在に伝えています。

史跡荘内籓ハママシケ陣屋跡写真

■ハママシケ陣屋の概要

以下、看板を引用

ハママシケ陣屋は、浜益平野と日本海の両方を見渡すことができる平陵に造られていました。

奉行長屋(ぶぎょうながや)をはじめとする主要な施設は浜益平野に面した斜面に配置されており、

斜面の中腹にある湧水から流れる沢の両側を階段状に造成して建物が建てられました。

奉行長屋は浜益平野を見渡せる最も高い場所にあり、下るにつれ奉行、家中(家中)、目付(めつけ)、物頭(ものがしら)、足軽(あしがる)と身分に従って住居が決められていました。

川下八幡神社の住所・アクセス・駐車場

■住所:〒061-3106 北海道石狩市浜益区川下6

・地図

■川下八幡神社までの
アクセスはルート検索が便利です。

駐車場は、川下八幡神社の鳥居手前左側にあります。

以上です。