網走神社の末社である網走護国神社(あばしりごこくじんじゃ)を参拝しました。ここでは、神社の由来や境内の石碑・社殿写真、合社となった七福神の写真などをご紹介しています。
目次
網走護国神社の行き方
網走護国神社は、網走神社内にある末社の神社です。
行き方は、踏切を渡り直進すると、網走神社の参道に繋がっている道から行きます。小高い山で登り坂になっており徒歩では勾配がきついですが、車でも通ることが可能です。
網走神社の参道を登って行くと、鳥居手前の右側に網走護国神社が見えてきます。
七福神巡り緑の散歩コース・護国神社毘沙門天と書かれた看板があり、その隣に網走護国神社があります。
網走護国神社(あばしりごこくじんじゃ)参拝レポ
網走護国神社は、網走神社の末社ではありますが、札幌にある神社と同じくいの広さがあります。
木々や緑も多く大自然の中にある神社です。
網走護国神社入り口前、右手に社号標があります。
網走護国神社には白い鳥居が一基あり、手前に一対の石灯籠(昭和五十年九月建之)があります。
網走護国神社の鳥居をくぐると、狛犬さん(昭和十三年十二月建之)が居ます。
参道左手に手水石があります。
網走護国神社の参道左手には、石碑が祀られています。
左側から、船舶特別攻撃隊慰霊碑(昭和56年9月建之)、網走防空監視哨 記念碑、護国忠魂碑、網走護国神社由緒略記(昭和五十年九月建之)、平和記念碑です。
網走護国神社の参道右手には、中川稲荷神社もありました。
網走護国神社の七福神
網走護国神社の参道右手(境内)には、七福神も祀られています。
七福神の由来
網走神社の前身は又十藤野家の辧天社でこれを氏神として譲り受け後に厳島神社より全国唯一の御分霊社の許可を受け、茲に県社北見国の一の宮となった昭和の始め、神社総代有志相謀り次の七ヶ所に七福神を創祉した。
辨財天(桂ヶ丘)
大黒天(御野立所)
恵比寿神(最寄浜)
寿老人(向陽ヶ丘)
毘沙門天(大曲明神山)
布袋神(不動山)
福禄寿神(天都山)
行程三里(十二キロ)を春秋二回集団で七福巡りを行ったが当時年中行事として名物であった。
戦後三十年、放置されたままになっているのを憂い、昭和五十六年六月十日、網走寿大学十五周年記念事業として護国神社境内に復元合社したのである。
網走護国神社には石碑が多く祀られている
網走神社の末社である網走護国神社ですが、本社よりも石碑の数が多くあります。
網走護国神社の参道右側と左側の石碑の他にも、社殿前にも石碑が祀られています。
左側から、廣川六治郎 銅像、御歌の碑(昭和五十三年九月建之)、網走護国神社 祭神銘碑(平成七年六月)。
網走護国神社に最も貢献した人物は、廣川六治郎さんです。
社号標や石灯籠、網走護国神社由緒略記、御歌の碑など、数多く奉納しています。
網走護国神社の社殿と歴史
網走護国神社の社殿前にも石灯籠があります。
網走護国神社の拝殿には、扉にお賽銭を入れる穴があり、そこにお賽銭を入れて参拝をします。
ご利益は、
・厄難除け・子孫繁栄・家内安全・病気平癒・安全祈願・商売繁盛・長寿・国家の安泰・国民の幸福・世界の平和などです。
歴史
網走護国神社由緒略記より
明治三十九年十一月九日日露戦役に従軍し名誉の戦死を遂げられた故陸軍歩兵上等兵藤尾辰蔵之命外六柱の偉勲を永遠に讃える為時の町長佐藤信吉殿と帝国在郷軍人分会長高松松次郎殿と相計り第三軍司令官陸軍大将乃木希典閣下の揮毫を得て忠魂碑を網走神社境内に建立す明治四十二年三月網走神社旧拝殿の譲渡を受け招魂社殿として祭事を司る
昭和十二年支那事変勃発に依り奉祀すべき祭神も多数を加うるに至れるを以て時の町長大橋千次郎殿と聯合分会長廣川六治郎計り町有志多数の賛同と浄財を得て昭和十三年十月此の地に本社殿を新築し英霊安鎭の誠を捧げ忠魂碑に遺品を収めて永く顕彰を期し今日に至る
網走護国神社は静寂な境内です。本社の参拝前・後に、訪れてみてください。
以上です。